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マタイの福音書 16:13-20

マタイの福音書16:13-19を読みましょう

[13]さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」[14]彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」[15]イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」[16]シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」[17]するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。[18]ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。[19]わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」   

イエスに信仰がある人はペテロのように「イエスはキリストであり、生きる神の子である」と同じように告白をします。信仰を持っている人には、とても良い知らせがあります。  

  1. 私たちは教会の一員です。私たちはペテロの上に建てられた石であり、信仰の告白をする最初の者たちである。(エペソ2:19-22と第一ペテロ2:4-5を見てみましょう)  

  2. 私たちは教会の一員です。私たちは死を打ち破ります。(「地獄の門」は旧約聖書で使われたフレーズで、ユダヤ文化やギリシャ文化の文学において、死の力に関連しています)  

  3. 私たちは教会の一員です。私たちいま、天でつながっています。つまり、私たちの罪は許されて、神の家族に迎え入れられています。

J.I.パッカーは教会に関するこの点についてこう書いています。  

本質的に教会は、過去、現在、そして未来にわたって、神が臨在される場である天のエルサレム(ガラテヤ4:26、ヘブル12:22-24)、すなわち真の聖所に永遠に集うひとつの礼拝共同体であり続ける。そこにおいてキリストにあって生きる者、すなわち肉体にあって生きている者も肉体の死を経験した者も(つまり戦う教会も勝利の教会もともに)すべてが絶えず礼拝をささげる。しかし、この世においては、このひとつの教会は地域教会というかたちで現れ、それぞれの地域教会は全体としての教会の小宇宙(すなわり小規模な代表標本)としての役割を果たすために召されている。このことは、パウロにとってはひとつの普遍的教会がキリストのからだであり(Ⅰコリント12:12-26、エペソ1:22-23、3:6、4:4)、地域教会もキリストのからだである(Ⅰコリント12:27)ということがどのようなことであるのかということを説明している。(https://www.evernote.com/shard/s35/sh/3c18971b-2fea-4b1d-8ba7-d4642db1fbbb/e541b4608f17a744)    

イエスはほかの箇所で、つなぐことと解くことの概念について教えている。    

ヨハネの福音書20:23を読みましょう  

あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。   

マタイの福音書18:15-20を読みましょう  

[15]また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。[16]もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。[17]それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。[18]まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。[19]まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。[20]ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」   

ここでもイエスは地上でつなぐことと解くことにおける教会の権威についてふれています。言いかえれば、教会の責任とはある人を、救いに導く信仰を持っているので救われているということを確信をもって自覚させる手助けをすることです。「あなたはキリストのからだの一部です。死が勝つことのできない教会の石なんです。神の子なんです!励まされてください!」と言うとします。これは人々を教会につなぐことです。一方で、真の救いに導く信仰を持っていない兆候を示している人がいたときには、教会はその人を教会から解く責任を持っています。マタイの福音書18章で、イエスは罪との戦い方を人々に教え、悔い改めるよう求めています。詰まるところ、悔い改めのない人は悔い改めのみられない罪がその人は信仰を持っていないことを示しているので、教会を去るよう求められているのです。   

地上においてつなぐことと解くことは、天で起こっている現実を高らかに表すことです。   

J.I.パッカーは教会の戒規の過程について以下のように書いています。  教会におけるあらゆる形式の譴責([けんせき]規則に反した者や信用失墜行為を行った者などに対し、始末書を書かせて提出させ、戒めること)の目的は、罰を与えること自体にあるのではなく、悔い改めに導かれ、迷い出た羊を回復することである。究極的には、教会のメンバーが除名されなければならない罪はただひとつである。それは悔い改めのないことである。はっきりと悔い改めたときには、教会はその罪が赦されたことを宣言し、その人をもう一度交わりの中に受け入れる。(https://www.evernote.com/shard/s35/sh/4fae70bb-427f-4cdd-84e8-7c0b58b0eabb/ae914eb9c3644f18)   

教会の戒規の望ましい目標については、以下の文章を読みましょう。    

第一テモテ1:18-20を読みましょう  

[18]私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。[19]ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。[20]その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。   

目標=学び、悔い改めること   

コリント人への手紙第一5:4-5を読みましょう  

[4]あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、[5]このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。  

目標=悔い改め、最後の日に救われるため   

ディスカッション:地域教会で実際に教会の戒規が実行されたところを見たことがありますか?(うわさ話や具体的な個人名を挙げるのは避けましょう)それはうまく行きましたか?どんな結果でしたか?悔い改めやつなぐこと、あるいは悔い改めのないことや解くことに関連して話してみてください。

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